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ザンビア便り第25回 「自由の戦士とザンビア独立解放闘争」

 

 第22回から第24回にわたって,自由の戦士とはどのような人物だったのか,そして,どのような考えをもっていたのかについてご紹介してきました。今回は,これらの方々のインタビューをも踏まえて,自由の戦士が関わったザンビア独立解放闘争の意義とその影響について考えてみたいと思います。

 

1.ザンビア独立解放闘争の意義

(1)ザンビアの独立時期を早めた。
 ザンビアの独立解放闘争がザンビアの独立時期を早めたことについて異論を唱える方は少ないだろうと思います。英国政府はアフリカの英国植民地を国民国家に転換していくとの方針を1940年代末には固めていたものの,何時,どのようにそれを実現するかについては決めていませんでした。また,植民地の住民の抵抗や不服従といった植民地経営に伴うコストの上昇がなければ,英国政府としても,植民地を手放すインセンティブは高まらなかったでしょう。ザンビアと同じく英国植民地だったジンバブエが独立したのが1980年だったことを考えると,独立解放闘争がなかったならば,ザンビアの独立は10年から15年程度は遅れていたかもしれません。

 

(2)アフリカ人によるアフリカ人のための統治が可能となった。
 もう一つ言えることは,ザンビア人による効果的な独立解放闘争がなければ,南北ローデシア及びニヤサランドが一つの国になり,その中で白人優位の政治やアパルトヘイトのような差別的政策が,少なくともジンバブエ独立の1980年まで,場合によっては(ジンバブエの独立解放闘争を支援したザンビアのような国が現れなかった場合)冷戦終了前後まで,続いていたかもしれないということです。
 ザンビアでのアフリカ人によるアフリカ人のための統治,言い換えれば,真の意味での独立は,独立解放闘争を効果的に勝ち抜いたからこそ,得られたといえるでしょう。

 

    

チレンジェ・ハウス394(ケネス・カウンダ氏が9ヶ月の獄中生活の後に1960年1月から1962年12月まで住んだ家。カウンダ氏は,UNIPの党首として,この家から独立解放闘争を指揮した。)

 

2.ザンビア独立解放闘争の近隣諸国への影響

 近隣諸国の独立解放闘争へのはずみをつけた。
 ザンビア独立は,近隣諸国の独立やアフリカ人解放闘争にはずみをつけました。ザンビア独立の2年後,1966年に英国植民地だったボツワナが独立します。また,ザンビアの近隣には,白人政権下にある国(南アフリカ,ジンバブエ)や植民地支配下にあった未独立国(ナミビア,モザンビーク)がありました。これらの国や地域では独立解放に向けた動きがみられましたが,ザンビアの自由の戦士は,自国の独立に満足するのではなく,これらの独立解放闘争を支援しました。これによって,モザンビークが1975年,ジンバブエが1980年,ナミビアが1990年にそれぞれ独立します。南アフリカにマンデラ政権が成立したのが1994年です。また,長らく内戦下にあったアンゴラについても和平合意を仲介し,1994年にルサカ和平協定を成立させます。また,1999年には,第2次内戦に入ったコンゴ(民)の和平を仲介し,ルサカ合意を成立させました。
 他国の独立解放闘争を支援したり内戦の和平仲介をするというのは,言うのは簡単ですが,実践するのは本当に困難なことだっただろうと思います。実際に,近隣諸国の独立解放闘争を支援したために,ザンビアは,南アのダーバンに抜ける輸送路をジンバブエの白人政権によって封鎖され,また,南ア軍やジンバブエ軍からザンビア国内に対し空爆やコマンドウ攻撃を受けることになります。
 自国の利益や発展だけを考えるならば,これらの白人政権と良好な関係を維持して,独立解放闘争への支援を控えるとの方策もありえたはずです。実際に,このような政策をとった国も南部アフリカ地域にはありました。ザンビアが,あえて困難な途を選んだのは,独立解放闘争を戦った方々がザンビアの政権を運営したからでしょう。1963年のアフリカ統一機構(OAU)決議にアフリカ全土の解放が謳われてはいましたが,独立解放闘争を経験した世代でなければ,この決議を身を挺して実現しようとはしなかったのではないでしょうか。

 

3.ケネス・カウンダ初代大統領の横顔
 最後に,自由の戦士のリーダーであり,またザンビア建国の父であるケネス・カウンダ初代大統領について触れたいと思います。ケネス・カウンダ氏は,1944年から47年まで北部州のルブワで職業訓練校の校長を務めていましたが,白人入植者が南北ローデシアとニヤサランドの連邦を目指す動きに北ローデシアのアフリカ人が反感を募らせた1950年から政治活動を始めます。まず,ハリー・ンクンブラが総裁だったアフリカ国民会議(ANC)に参加し,1953年からは事務局長を務めます。1958年には,「即時独立」,「一人一票」をスローガンにして,サイモン・カプウェプエらとANCを脱退し,ザンビア・アフリカ人国民会議(ZANC)を結成します。その後,ZANCは活動禁止処分を受け,カウンダ氏は投獄されます。カウンダ氏が投獄中の1960年にZANCを母体にして統一国民独立党(UNIP)が結成され,服役後に,カウンダ氏はUNIPの党首に選出されます。その後は,ザンビア便り第21回に記述したとおり,独立解放闘争を経て,1962年に北ローデシア・地方自治・福祉大臣に就任,1964年1月に同首相に就任し,1964年10月のザンビア独立とともに初代大統領に就任します。

 

         

 

 

 カウンダ氏の業績については多くの著作がありますので,そちらに譲ることにして,ここでは,筆者が見聞したカウンダ氏の人となりをご紹介したいと思います。
 2013年10月30日にカウンダ氏が大使公邸の夕食会に訪れた時のことです。カウンダ氏が,白人経営の肉屋によるアフリカ人への差別的待遇を憤るあまり(ザンビア便り第24回に詳述),独立解放闘争時から,肉を一切口にしなくなったということは存じ上げていたのですが,ティー(tea)までも絶っているとは存じ上げませんでした。公邸の給仕がカウンダ氏に食後の飲み物としてティーかコーヒーを勧めたところ,カウンダ氏の反応は次のとおりでした。

 「私は,ティーは飲みません。かつては,ティーが好きだったのですが,独立解放闘争の時に刑務所に入れられることになり,刑務所に入る前に,自由と独立に向けた自分の決意を維持するために,もう二度とティーは飲まないと決意しました。それ以来,一切ティーを口にしていません。刑務所では,自分は,黒人房ではなく,白人の囚人と一緒の房に収監されていました。そこで白人はティーを飲んでいましたので,彼らのためにティーを入れてやりました。しかし自分では飲みませんでした。」

 

 まるで「臥薪嘗胆」のような話です。自分の信念を貫くために自分の楽しみを絶つ,しかも,独立を達成し自分が大統領になった後も,若い頃の決意を一切曲げないというのは,普通の人にはなかなかできることではありません。
また,このような話もされていました。

 

 「ザンビアは,モザンビーク,ジンバブエ,南アフリカなどの近隣諸国の独立解放闘争を支援してきました。ザンビア自身は,インドのマハトマ・ガンジー氏の提唱した非暴力不服従運動によって独立を達成しましたが,近隣諸国のアフリカ人にはそのような余裕はありませんでした。そこで,タンザニアが独立(1961年)した後,近隣諸国の自由の戦士を北ローデシア経由でタンザニアに送っていました。自由の戦士は,タンザニアで訓練を受けました。そして,再び北ローデシア経由で彼らを近隣諸国に送りこんでいたのです。ザンビア独立後(1964年)は,近隣諸国の自由の戦士をザンビア国内で受け入れて訓練し,訓練後に近隣諸国に送り返していたのです。これを察知した南ローデシアの白人政権は,ザンビア南部の訓練基地を空爆しました。」

 

 「自分は,民族,皮膚の色,宗教等にとらわれることなく,ザンビアの建国スローガンである「One Zambia, One Nation」のような,人々を一致団結させる方法を見いだすことが今のザンビアにとって重要だと考えています。」

 

 このようなエピソードを紹介すると,読者の中には,カウンダ氏は冷徹で厳しい方というイメージを持つ方もいらっしゃるかもしれませんが,実際には,茶目っ気たっぷりの人柄で,ギターやピアノを演奏し,ジョークを好む魅力的な人物です。90歳になられた現在でも,興に乗るとダンスを始めます。
 また,日本の皇室への敬愛の念の強い方でもあります。1983年に天皇皇后両陛下が皇太子同妃両殿下としてザンビアを訪問された際には,カウンダ氏は大統領として,両殿下を大統領官邸にお泊めになられただけでなく,両殿下がリビングストンのビクトリアの滝(首都ルサカから500km近くも離れた場所にあります)にご同行されて,自ら案内をされました。また,本年6月に秋篠宮同妃両殿下がザンビアを訪問された際には,ザンビア政府主催晩餐会で両殿下とともにダンスをされました。また,カウンダ氏を表敬訪問された両殿下の前でギターを演奏して歌を披露されました。また,両殿下に対し,「ザンビアがどんな状況にある時も常に側にいてくれた友人(all weather friend of Zambia)」と日本を形容され,日本からの支援と日本の友情に感謝の念を示されました。
 このような偉大な指導者を持つザンビアだからこそ,独力で独立を達成しただけでなく,近隣諸国の独立と平和を支援できたのだと思います。

 

在ザンビア日本大使館
参事官 山地秀樹