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ザンビア便り第24回 「自由の戦士3:チベサ・カンカサ」
第22回と第23回で,男性の自由の戦士をご紹介しました。今回は,女性の自由の戦士,ママ・カンカサ(「ママ」は,ザンビア社会での立派な女性の敬称)をご紹介します。同女史は,1936年に北部州チンサリで生まれ,1952年に独立解放の闘士だったティモシー・カンカサと結婚します。1955年,19歳の時に差別を経験したことをきっかけに,独立解放闘争に参加します。統一国民独立党(UNIP)の中央委員会委員であり,同女性リーグ議長を務めた後,1969年から88年まで女性問題担当大臣を務め,その後,在ケニアの高等弁務官となります。引退後は,ルサカ市内の貧民地区近くに自宅を改築して小学校を設立し,孤児にも教育の機会を与える活動を続けています。
以下は,4月11日,5月31日,6月21日に自宅兼小学校の応接室でインタビューしたものの一部です。
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Q(筆者):独立解放闘争を始めるきっかけは何だったのですか。
A(ママ・カンカサ):1952年に,当時住んでいたキトウェ(コッパーベルト州)で明確な差別を経験しました。白人が経営する 肉屋に入っていこうとしたら,白人女性の店員に「出て行け,出て行け」といわれたのです。その店員は,「アフリカの女性は匂いがきつく,店が臭くなる」と言いました。私は臭くはありません。
そのことを,家に帰って夫に話したら,夫がその店に仕返しに行くといって騒ぎが大きくなりました。結局夫と自分の二人は警察の留置所に数時間拘留されました。
Q:どのような差別があったのでしょうか。
A:アフリカ人は白人用の店に入れませんでした。植民地政府は,アフリカ人を2級市民として扱ったのです。証明書がなければ町に入ることもできませんでしたし,州の間の移動もできなかったのです。
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Q:独立解放闘争ではどのような活動をされたのですか。
A:私は,「石投げ(stone throwers: posamabwe)」のニックネームをつけられていました。白人の植民者に石を投げていたからです。石を投げることは重要です。それは,自分たちが植民者を殺すのではなく,植民者の統治に異議を唱え,反抗することを意味したからです。
また,解放闘争に関わった人々に食事を提供したり,洗濯をしたりしました。
夫のティモシーを支えて,仲間からは「national cook」と呼ばれていました。
独立解放闘争は,北部州,コッパーベルト州,ルアプラ州,東部州で激しかったです。道路に溝を掘って,車の往来を妨害したこともありましたね。
Q:闘争に女性が加わるというのはアフリカでは珍しくないのですか。
A:アフリカ社会では伝統的に女性の役割が大きいのです。部族の長も女性が務めることがあります。闘争に加わった女性としては,ママ・ジュリア・チカモネカ,ムクワエ・ナカティンディ・ンガンガ,ママ・マヴィス・ムルンディカがいました。
英国の外務次官メリア・サイデンがルサカに来たとき,自分とジュリア・チカモネカは,上半身裸になって,独立を求めるプラカードを掲げて抗議したのです。
独立解放闘争での女性の役割を説明したパネル(ザンビア国立博物館) |
英国のモールディング植民地大臣が北ローデシアを訪問した際のアフリカ人の抗議の様子 |
モールディング植民地大臣来訪時に上半身裸で抗議する女性たち |
Q:自由の戦士についてのお考えがあればお聞かせください。
A:私は,独立解放闘争で危険を顧みずに勇敢に戦ったのに,独立後には,見向きもされなかった数多くの自由の戦士のことをずっと気にかけてきました。
カウンダ元大統領に近かったり,教育のある自由の戦士たちは,独立後に報われ,政府に要職を得ましたが,数多くの無名の戦士たちは忘れ去られました。
自由の戦士記念碑が設置されたのも独立後10年経ってからです。数多くの無名の自由の戦士がいます。これらの人々に栄誉を与えなければならないと思います。
在ザンビア日本大使館
参事官 山地秀樹
(注)ザンビア国立博物館の内部では写真撮影が禁止されていますが,文中の写真は,同博物館館長Dr. Friday Mufuziから特別の許可を得て撮影したものです。
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