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ザンビア便り第23回 「自由の戦士2:マリンバ・マシェケ」

 

 次にご紹介する自由の戦士は,マリンバ・マシェケ将軍です。同将軍は,1941年生まれで,14歳の頃から独立解放闘争に加わり,独立と同時に,1964年から66年まで英国サンドハースト陸軍士官学校で学びました。67年に陸軍大尉として陸軍に入隊し,陸軍司令官を経て,85年から88年まで国防大臣,88年から89年まで内務大臣,89年から91年まで首相を歴任されました。政界引退後は,NGOの代表として社会福祉活動に取り組まれています。

 今回は,2014年の4月2日と7月9日に筆者が同将軍のオフィスで行ったインタビューの内容をご紹介したいと思います。

 

 

Q(筆者):北ローデシアでの独立解放闘争は何年頃から始まったと考えておられますか。


A(マシェケ将軍):1930年代から植民地政府に対する抵抗運動があったと思います。植民地政府の下で,アフリカ人は, 待遇,給与,職を含めあらゆる差別を受けており,アフリカ人の間に,これらへの不満が高まっていました。アフリカ福祉協会は,これらの不満を受け止める受け皿となっていました。1964年の独立時には,北ローデシアには約100名の大学卒業者がいましたが,これらの者も,大卒にふさわしい職や待遇を受けられていませんでした。インドが独立し,そして1957年にガーナが独立したときに,ザンビアのアフリカ人達は,自分たちも独立を勝ち取れると考えたのだと思います。

 

Q:独立解放闘争の意義をどう評価しますか。


A:英国政府の政策変更によって,いずれザンビアも独立できるとは考えられていましたが,独立解放闘争が行われたことによって,明らかに独立の時期が早まったと思います。

 

Q:植民地統治下ではどのような差別があったのでしょうか。


A:例えば,ホテルはアフリカ人の客がホテル内に立ち入ることを断っていました。アフリカ人がホテルに入れるのは,使用人としてだけでした。学校も白人,インド人,アフリカ人と分けられていました。ルサカの高級住宅地であるカブロンガなどの白人居住区域に入るためには,アフリカ人は,特別の許可証を提示することが必要でした。
 また,白人の飼っている犬は,アフリカ人の匂いをかぎ分けて,アフリカ人に噛み付くように訓練されていました。
 アルコール類の販売も,アフリカ人は制限を受けており,許可証を持っているアフリカ人だけが購入を許されていました。各州の間の移動も制限されていましたね。それから思い出すのは,植民地政府の警察官は,すぐに固い杖でアフリカ人を叩いていました。

 

Q:独立解放闘争の中でどのようなことをなさっていたのでしょうか。

 

A:私は,1954年から独立解放闘争に加わりました。14歳でした。中等学校の生徒でしたが,週末や夜間に,道路で座り込みをしたり,材木を道路において交通を妨害したりしました。多くのアフリカ人がこの不服従運動(civil disobedience)に加わっていました。ルサカの総督府(現在の大統領府)前で,独立のプラカードを掲げたこともありました。しかし,独立解放闘争では,武器は一切使いませんでした。カウンダ氏に禁じられていたからです。
 但し,すべてのアフリカ人がこのような運動を支持していたわけではないのです。私の母親は,「ヨーロッパ人なしで,どうやって生活していくの」と言っていました。植民地政府の下で利益を得ていたビジネスマンなども同じ考えでした。したがって,「自由の戦士」はザンビアのアフリカ人とも戦っていかなければならなかったのです。
 1963年,22歳だったときに,あやうく警察に逮捕されそうになりました。私は,その年に,統一国民独立党(United National Independence: UNIP)の南部州の学生部の部長になったのですが,リビングストンで,学校間の暴力事件に巻き込まれて,右腕を負傷しました。この暴力事件に関わっていたとして友人のジョーシタンが逮捕されました。彼は,その暴力事件には,ヴァーノン・ムワーンガや私も関わっていたと警察に伝えたのです。
 私は,暴力事件の翌朝に飛行機でモングに移動し,学業成績優秀者として,また,サンドハースト陸軍士官学校への選抜生として,モングの学校の校長とともに,総督ダルハウジィ主催の夕食会に出席しました。夕食会が開始されてから30分後に,リビングストンの警察署長から同校長に連絡が入り,私がリビングストンで前日,暴力事件を起こしたと伝えたのです。しかし,同校長は,「リビングストンからモングまではバスで4日間かかる。今しがたマシュケは自分と一緒に夕食をしていた。昨日リビングストンにいられるわけがない」と取り合いませんでした。この応答がなければ,自分は逮捕されていたでしょう 。

 

Q:独立解放闘争の中で一番印象的な出来事は何ですか。

 

A:独立前の1962年の総選挙で,白人主体の統一独立党(United FeseralParty:UFP)から16人,カウンダ氏率いるUNIPから14人,ANCから7人が当選しました。カウンダ氏は,それまでのアフリカ人国民会議(African National Congress:ANC)との対立や摩擦を寛容の精神で容認して,アフリカ人が過半数をとるためにANCと連携したのです。この連携がなければ,独立の時期は遅れていたでしょう。そして,1963年の選挙では,UNIPが単独過半数を勝ち取ったのです。
 独立後も,ザンビアの指導者は,アンゴラ,ナミビア,ジンバブエの黒人解放闘争を支援しました。カウンダ大統領は,「近隣諸国が解放され自由とならない限り,ザンビアは自由ではない」と述べて,これらの諸国を支援したのです。

 

Q:将軍にとっての「自由の戦士」とは何でしょうか。

 

A:自由の戦士はカウンダ氏が率いたのだと考えています。カウンダ氏は,優れたリーダーであり,また宗教的信念も有していました。神の前で,人々はすべて平等だと信じており,その考えを広めたのです。

 

 

Q:将軍を含めて独立解放闘争を戦った人々はどのような社会の実現を目指していたのですか。

 

A:独立解放世代に共通していたのは,一言でいえば,「階級や階層のない社会(classless society)」の実現を求めていたとい うことだと思います。極端に富める者もいなければ,極端に貧しい者もいない,そういう社会を作りたかったのです。法の支配が徹底した,平等で公平な社会の実現,と言い換えることもできます。
 独立解放闘争世代は,公と私の区別を明確にしていました。閣僚は,政府と関係するようなビジネスを兼務することは禁じられていましたし,資産公開もしていました。しかし,チルバ政権になってから,汚職が激しくなり,閣僚や役人が政府と関係するビジネスをすることが認められました。それから,政治家や役人の堕落が始まりました。大統領が近親者を政府高官に任命するとか,閣僚が政府とのビジネスで自らの企業に利益をもたらすなどということは,以前は考えられなかったのです。
 大統領が司法の長に自らの親戚を任命するなどして,司法の独立が揺らいでいます。警察は,証拠さえあれば,相手がどのような権力者であれ逮捕できなければならないのですが,今の社会では,これができていません。システム自体が腐敗しています。
 システムをできる限り正常に戻さないと,多くの流血が待ち受けていると思います。この流血というのは,クーデターを意味するわけではなく,不公平なシステムの下で数多くの有能な人物が犠牲となり,これを正すのに多大のエネルギーと犠牲と努力を必要とするという意味です。

 

Q:これからどのような活動をされるのでしょうか。

 

A:私は,2歳で父を亡くしました。兄弟は5人いましたが,十分に食事することもできず,とても貧しかったのです。夜は,毛布もなく,裸で床に横たわって寝ていました。6歳から牧牛の管理の仕事をして月に1シリング,8歳からはメッセンジャーとして働いて月に3シリングのお金を稼ぎました。従兄弟の両親のおかげで,学校に通い始めたのは12歳の時でした。1年生から始めましたから,周りは皆,私よりも小さい子でした。周りが同年代となったのは英国のサンドハーストに行ってからでした。たまたま,神のご加護により,私は,首相にまでなることができました。エリザベス女王,ニクソン大統領,中国の国家主席,カダフィ大佐とも食事をして会談をしました。
 しかし,自分の心は,いつも,貧しくて裸で床に寝ていた少年時代にあります。ザンビアには,多くの貧しい少年がいます。その中には才能に恵まれた者も多くいるでしょう。
 私が神のご加護によって才能を見いだされたように,貧しい子供達を助け,彼らが国のために働ける人物になれるよう励ましていきたいと考えています。

 

 

                                                         在ザンビア日本大使館

                                                            参事官 山地秀樹