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ザンビア便り第22回 「自由の戦士1:ヴァーノン・ムワーンガ」
それでは,まず,自由の戦士のひとり,ヴァーノン・ムワーンガ氏をご紹介しましょう。同氏は,ザンビアでは,自由の戦士として,ケネス・カウンダ初代大統領に次いで有名な人物です。1944年に南部州のチョマで生まれ,同州リビングストンで初等・中等教育を受け,セカンダリー・スクール(日本の高校に相当)在学中,16歳の時に,カウンダ率いる「統一国民独立党(UNIP)の党員に登録しました。
同氏は,17歳で学校を卒業した後,重大な選択をすることになります。アフリカ人国民会議(ANC:南部州に基盤をもち,穏健な方法での独立を追求)に入るか,UNIP(ANCから分派した急進的集団で即時独立を要求)に入るかで迷い,両党の幹部に面会に行くのです。
ANCの幹部は,入党してくれたらランド・ローバーと高い給与を保証すると言ったそうです。一方,UNIPの幹部は,UNIPに入っても無給で,自転車しか用意できない,UNIPでの政治活動を軽く考えない方が良い,家に戻って1週間よく考えるようにと言ったそうです。
そして,当然のごとく,ムワーンガ氏の父親(教師)は,南部州出身者中心で待遇も良いANC入りを強く勧めました。しかし,熟考した結果,ムワーンガ氏は,UNIPへの入党を選択するのです。この時の判断については,ムワーンガ氏は,「ANCでのよい待遇を受け入れてしまえば,自国のために戦っているという実感が持てなくなる。自由の戦士は,誰も快適な人生など送れないのだと考えた」と自著で明らかにしています。
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UNIPに入党したムワーンガ氏は,南部州のチョマ地区及びナムワラ地区の地域支部書記として,UNIPへの支持を同地区で拡大させる任務に就きます。
ケネス・カウンダ初代大統領の「一つのザンビア,一つの国家(One Zambia, One Nation)」のスローガンの下,73の部族(民族)が半世紀の間結束と融和を保ってきた現在となっては想像しにくいことですが,当時は,南部トンガ族の間では,「トンガ族の利益を代表するのはANCのみである。UNIPは北部ベンバ族が支配する「外国」政党であり,それを支持するトンガ族は裏切り者である」という認識が一般的でした。このような中で,南部州においてUNIPの勢力を拡大するのは困難を極めました。ムワーンガ氏は,同氏の家族や親族から裏切り者としてつまはじきにされ,父親の自宅にすら2年間足を踏み入れることは許されませんでした。また,至る所で投石,罵詈雑言を浴びたようで,常に身体に危害が及ぶ危険を感じての活動だったようです。しかし,地道な広報や演説の努力が実り,また,ANCが再度分裂したこと等によって,UNIPは南部州でも支持を拡大し,全国的な政党に発展していきます。
ムワーンガ氏は,UNIPの中では最も急進派に属していたようですが,その後,政府の要職に就いたこともあり,植民地政府に対する暴力事件にどの程度関与したかについては,自著の中でも明らかにしていません。この点について,筆者がムワーンガ氏にインタビューした際(2014年6月20日),以下のようなやりとりがありました。
Q(筆者):1961年7月のUNIP主導の市民非暴力不服従運動,いわゆる「チャチャチャ」キャンペーンは,大規模な暴力事件に発展しますが,暴力に訴えるということはケネス・カウンダ氏自身が立案し指導したのですか。
A(ムワーンガ氏):「カウンダ氏は,一貫して非暴力の立場を維持していました。7月8日,9日のルサカ,ムルングシの党会合で,暴力に訴えることを主張したのは,私を含めた過激グループでした。私は,最初から,武力をもって(militarily)植民地政府と対峙しない限り,植民地支配は必要以上に長く続くことになると考えていました。一方,カウンダ氏は暴力を否定していました。カウンダ氏が暴力事件を指導したとの説を聞いたら,カウンダ氏は悲しむでしょう。」
ムワーンガ氏は,その才能をカウンダ氏他UNIP幹部に認められ,ザンビア独立が近づいてきた1963年に,独立後の国家の外交を担う人材として,オックスフォード大学(英連邦研究所で国際関係と公共財政を研究)に派遣され,その後,イタリア・ローマの英国大使館で二等書記官として外交官の基本を学びます。
独立後の活躍は華々しく,初代駐ソ連大使(65年~65年),大統領府事務次官(66年~68年),国連大使(68年~72年),国連安全保障理事会理事(69年~70年,史上最年少で議長に就任),タイムズ・オブ・ザンビア紙編集長(72年~73年),外務大臣(73年~76年),信用商業銀行会長(77年~86年),ザンビア商工会議所会頭(80年~86年),複数政党制民主主義運動(MMD)創設に参加(90年),国会議員に選出(91年~2011年),外務大臣(91年~94年),アンゴラ和平合意を仲介(93年~94年),情報・放送大臣(99年~2002年),情報・放送大臣(2005年~2007年)を歴任します。
2011年に政界を引退した現在でも,ザンビアでの民主主義の定着,より良き統治(グッド・ガバナンス),憲法改正の必要性などについて広く発言をしています。
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華々しい経歴の中で,あまりに若い頃から大使として活躍したが故のエピソードをご紹介します。ネルソン・マンデラ氏が,1990年2月に27年間の収監から釈放されて,ザンビア,ルサカを訪れた時のことです。当時のカウンダ大統領の計らいで,マンデラ氏は大統領官邸に宿泊していました。ムワーンガ氏が大統領官邸にマンデラ氏を訪ねると,マンデラ氏が寝室から出てきて,ムワーンガ氏を見るなり,「あなたは,ムワーンガ国連大使の息子か」と尋ねたそうです。マンデラ氏は,1960年代に国連の場でザンビアのムワーンガという大使がマンデラ氏釈放を要求して活動していたことをご存じでした。しかし,マンデラ氏は,国連大使ということで,かなり高齢の大使を想像していたようです。ムワーンガ国連大使というのが,24歳で国連大使に就任したムワーンガ氏本人だということがわかって,皆で大笑いしたということでした。
このように立志伝中の人物となったムワーンガ氏ですが,現在のザンビアの政治状況には懸念を有しているようです。特に,現役の多くの政治家が私利私欲に基づいて活動している現状を憂えておられ,インタビューの中で次のように述べられています。
「独立闘争の我々の世代には,国家と公共の利益を自らの利益よりも重んじること,無私,勇気,忍耐という共通の価値観がありました。それが,今の世代の政治家には引き継がれていません。多くの政治家は『自分の家族が,自分の親族が』ということをすぐに口にします。我々の世代の閣僚は,役所の次官よりも安い給与で働いていました。だから,今でもザンビアの閣僚の給与は南部アフリカの他の国の閣僚の給与よりも低い水準で抑えられているのです。国のために自分に何ができるかを考え,そのためには無償で貢献するという主意主義(Voluntarism)をもっていたのです。私は,今のような現状の国をみるために働いてきたのではないのです。私は悲しいです。」
ザンビアという国を愛し,ザンビア人を愛しているからこそ,こういった手厳しい指摘を後進達に浴びせることができるのでしょう。ザンビアの中で,ムワーンガ氏のような愛国の士の指摘に耳を傾け,独立闘争世代の価値観を引き継ぐ人々が次々に現れることを願うばかりです。
在ザンビア日本大使館
参事官 山地秀樹
参考文献はこちら→
‘An Extraordinary Life – A Passion for Service’ by Vernon J. Mwaanga, Fleetfoot Publishing Company, 2009
‘The Long Sunset: My Reflections’ by Vernon J. Mwaanga, Fleetfoot Publishing Company, 2008
筆者によるムワーンガ氏へのインタビュー(2013年11月22日,同12月18日,2014年6月20日)
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