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ザンビア便り第21回 「ザンビア独立に尽くした『自由の戦士』

 

 ルサカ市の中心部,ザンビア政府合同庁舎の前に,「自由の戦士記念碑(Freedom Statue)」と呼ばれる銅像があります。若者が手枷を引きちぎっているその像の姿は,ザンビアが植民地支配の軛を断ち切ったことを表しており,ザンビア紙幣の裏側の図柄としても使用されています。

 「自由の戦士記念碑」は,ザンビア独立のために闘った人々(自由の戦士(Freedom Fighters))を追悼する目的で,ザンビア独立10周年を記念して1974年10月23日に建立されました。毎年,アフリカ解放記念日(5月25日)や独立記念日(10月24日)などには,大統領や副大統領が出席して献花式典が行われています。最近では,英国のエドワード王子や南アフリカのズマ大統領が来訪時に同碑に献花された他,本年6月30日には,ザンビアを御訪問された秋篠宮同妃両殿下が同碑に御供花されました。

 

                              自由の戦士記念碑

 

  「自由の戦士」という用語は,冷戦時には,西側諸国において,共産主義政権に抵抗する反政府組織や反乱グループを指すものとして使われたことがあるようですし,アフリカにおいては,南アフリカで反アパルトヘイト運動に取り組んだマンデラ元大統領をはじめとして,アフリカ人の政治的自由を獲得する闘争に関わった人々を指すようです。ザンビアにおいては,「自由の戦士」の明確な定義には今のところ接していないのですが,後出のヴァーノン・ムワーンガ元外相によれば,一般的に「ザンビアの独立解放に向けた政治的運動(以下,独立解放闘争)に関わった人々」を指すようです。この定義によれば,独立解放闘争のリーダーであり,建国の父であるケネス・カウンダ初代大統領が率いた政党「統一国民独立党(United National Independence Party: UNIP)」の関係者だけでなく,独立解放闘争過程ではUNIPと一時ライバル関係にあった「アフリカ人国民会議(African National Congress: ANC)や,それら政党の前身である「アフリカ人福祉協会(African Welfare Society)」の関係者も含まれます。ザンビア国立博物館には,「自由の戦士」に関するパネルが2枚展示されているのですが,そのパネルには,確かに,アフリカ人福祉協会のリーダーだったダウティ・ヤンバ氏やドナルド・シワレ氏が独立運動に関わった人物として記載されています。

 

  自由の戦士に関するパネル

   ドナルド・シワレの写真

 

 「自由の戦士」は,どのような時代を生きたのでしょうか。ここで,独立に至るザンビアの近代史を簡単に振り返ってみましょう。
 欧州諸国によるアフリカ植民地化の流れの中で,現在のザンビアの地は,1890年から,デ・ビアス社の創設者でもあるセシル・ローズ率いる英国南部アフリカ会社の保護領となり,1924年には,北ローデシアの名で英国の直轄植民地となります。1920年代に欧米資本によって銅鉱山の開発が行われ,その後,北ローデシアは世界有数の銅産出量を記録し続けます。一方で,北ローデシアのごく少数の白人(1920年代初頭で約4000名)は特権階級として優遇され,100万人を超えていたアフリカ人は,税(アフリカ人にのみ人頭税を課税),教育,住居,移動等で様々な差別的待遇を受けることになります。
 このような状況の中,1923年,デイビッド・カウンダ(ケネス・カウンダの父)やドナルド・シワレらが北部州のムウェンゾで,アフリカ人の福利厚生の向上を目的とした福祉協会(welfare society)を結成します。それから10年程の間に各地で福祉協会が設立され,1946年には全国的な福祉協会の結成,そして1948年には政治団体「北ローデシア国民会議」への改組につながっていきます。これらの組織を通して,インテリ層のアフリカ人が差別の緩和を植民地政府に要求し,更に,政治意識を高めていくのです。
 第二次世界大戦後,英国では,1945年に成立した労働党政権が,南アフリカの国民党政権(1948年成立。ボーア系)による南ローデシア(現在のジンバブエ)吸収の可能性を懸念し,1951年に成立した保守党政権が,各地の植民者の連邦に権限を委譲する政策を追求します。同時期に,南北ローデシアの白人植民者(特に,南ローデシアのスターリング大佐)も,より大きな政治的権力と南北ローデシア及びニヤサランド(現在のマラウィ)の連邦を英国政府に要求し始めます。これらが相俟って,1950年代初頭には,南北のローデシア植民地とニヤサランド保護領による中部アフリカ連邦を形成する案が検討され,1953年には英国議会がこのための連邦法を可決し,同年,連邦憲法も発効します。
 この連邦形成の動きが,北ローデシアのアフリカ人による独立解放闘争を一気に加速化させます。1951年には,「北ローデシア国民会議」を母体にして,初の黒人政党であるANCが結成され,連邦反対運動を主導します。北ローデシアのアフリカ人の主な主張は,南ローデシアには13万人以上も白人がいるので,連邦形成によって,北ローデシアのアフリカ人の権利が更に侵害されるというものでした。実際のところ,北ローデシアではアフリカ人が伝統的土地を白人に奪われることが頻発していましたし,南ローデシアのアフリカ人に比べてあらゆる待遇が低かったようです。また,北ローデシアのアフリカ人は南ローデシアの開発のための労働力供給源になっていたようです。わずか数千人の白人が居住する北ローデシアの現状がそのようなものでしたから,南北ローデシアが連邦となれば白人が北ローデシアで圧倒的力を持つとアフリカ人が恐れたのも無理もないことでした。連邦形成後に,北ローデシア・アフリカ人の懸念は現実のものとなりました。連邦が形成された1950年代は,朝鮮戦争の影響もあり,銅の国際価格が4倍近くにも高騰しましたが,北ローデシアの銅による多くの富は南ローデシアのサリズベリー(現在のハラレ)に持って行かれたようです。
 連邦反対運動は失敗しましたが,ANCによる人種差別反対キャンペーンや差別的行動をとる小売業者のボイコット運動が強まっていきました。1958年には,ANCの強硬派であるケネス・カウンダ,サイモン・カプウェプエらが,連邦憲法改正案の扱いをめぐる意見の相違から,ANCを脱退し,ZANC(Zambian African National Congress)を結成し,「即時独立」,「一人一票」をスローガンとして活動を開始します。同年,ZANCは,連邦政府の方針に反対したとの理由で活動禁止処分を受け,カウンダらは逮捕,収監(懲役9ヶ月)されます。カウンダが服役中にZANCを母体にUNIPが結成され,服役後,カウンダはUNIPの党首に選出されます。 1959年,英国では保守党が政権に就き,同政権のイアン・マクロード植民地大臣は,北ローデシアでの立法評議会においてアフリカ人が過半数を占めることを可能とする憲法改正案を提案しますが,北ローデシア政府はこれに反対します。
 これがアフリカ人の怒りに火をつけました。ZANCのケネス・カウンダは,1961年7月8日と9日にルサカ市内で党会合を開き,北ローデシア政府に圧力をかける策を相談します。カウンダはあくまで非暴力不服従運動に固執しますが,ZANC内の強硬派を押しとどめることはできませんでした。同月14日には,38の学校が焼き討ちにあい,24の橋が破壊され,150の道路が寸断されました。そして27名のアフリカ人が死亡しました(国立博物館資料)。別の資料(連邦政府発表)では,北部州だけで,1197件の事件があり,28の教会が焼かれ,64の学校が破壊され,69の車両が破壊され,146の道路が損傷を受け,3065名が逮捕され,21名が死亡したとされています。暴力事件は,北部州の他,ルアプラ州及びコッパーベルト州においてUNIP党員によって引き起こされたようですが,東部州や中央州でもそれとは独立の暴力事件があったようで,全国的な拡がりをみせました。更に,カウンダは,鉱山労働者の全面ストライキの案を明らかにし,北ローデシア政府に圧力をかけました。
 1961年10月,植民地大臣がマクロードからモールディングに代わり,アフリカ人多数議会を可能とする憲法改正案が提案・導入されました。翌62年10月に総選挙が行われ,ZANCとANCが議会の3分の2を制します。また両党は選挙後に連携し,両党党首とも閣僚ポストを獲得しました。1963年には,アフリカ人が反対していた連邦がニヤサランドの離脱により解体します。そして,完全普通選挙で実施された1964年2月の総選挙で,UNIPが単独過半数を獲得し,カウンダが北ローデシア政府首相に任命されます。カウンダ首相は,同年10月に北ローデシアをザンビアとして独立させることになるのです。

 

 このように,ザンビアの独立は,長年にわたる非暴力による忍耐や植民地政府や英国政府への要請だけではなく,最後の段階では暴力に訴えることで達成されたのです。この独立運動に関わった「自由の戦士」とはどういう人たちなのでしょうか。どのような考えを持ち,独立達成後どのような人生を歩んだのでしょうか。これらの点を次回ご紹介したいと思います。

 

                                                           在ザンビア日本大使館                                                              参事官 山地秀樹

  

 

参考文献はこちら→

 

‘A History of Zambia’, by Andrew Roberts, Africana Publishing Company, New York, 1976

 

‘A Political History of Zambia: From the Colonial Period to the 3rd Republic’, by Bizeck Jude Phiri, Africa Research & Publications, 2005

 

‘Living the end of empire: politics and society in late colonial Zambia’, by Gewald et al., Brill, 2011

 

‘End of Kaunda Era’, by John M. Mwanakatwe, A Multimedia Publication, Lusaka, Zambia, 1994

 

‘Zambia: Struggle of My People & Western Contribution to Corruption and Underdevelopment in Africa’, by Charles Mwewa, Maiden Publishing House, 2011

 

‘The Rise of Nationalism in Central Africa – The Making of Malawi and Zambia 1873-1964’ by Robert I. Rotberg, Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, 1965

 

(注)ザンビア国立博物館の内部では写真撮影が禁止されていますが,文中の写真は,同博物館館長Dr. Friday Mufuziから特別の許可を得て撮影したものです。