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ザンビア便り第4回 ハマーショルド元国連事務総長の記念施設

   

 ザンビアのカッパーベルト州の州都ンドラ市近郊に、ハマーショルド元国連事務総長の記念施設(Dag Hammarskjold Memorial Site)があります。ダグ・ハマーショルドは、スエーデンの人で、1953年から61年に亡くなるまで、第2代の国連事務総長を務めました。1961年、没後にノーベル平和賞を授与されています。当時は、世界で冷戦の最中でしたし、また、アフリカでも各地で独立闘争や紛争が頻発している時代でした。国連事務総長にとって難題山積みの時代であったと思われます。乗っていた飛行機の墜落により亡くなりましたが、その墜落した場所が、イギリスの保護領北ローデシアすなわち今のザンビアのンドラ市近郊でした。

 ハマーショルド事務総長は、現ザンビアの北隣りに当たるコンゴの動乱における停戦交渉のため現地入りしていました。コンゴは1960年6月にベルギーから独立しコンゴ共和国となりましたが、国内の統一は未熟で諸勢力が対立し、特に、現ザンビアと接するカタンガ州が翌7月に分離独立を宣言し、混乱に拍車がかかりました。コンゴ共和国の統一を維持するため国連軍が派遣されカタンガに介入しましたが、国連軍の活動は順調には行かず、事務総長自ら現地入りして国連軍とカタンガ軍との停戦交渉に当たることになりました。カタンガの大統領がンドラに避難していたので、この交渉はンドラで行われることになりました。1961年9月17日、当時のコンゴ共和国の首都レオポルズビル(現コンゴ民主共和国の首都キンシャサ)を発ったハマーショルド事務総長の搭乗機DC-6型機は、危険を避けるためカタンガ上空を大きく迂回しでタンザニア経由でンドラに向かいましたが、ンドラ空港に着陸する手前で墜落しました。ハマーショルド事務総長を含めて16名の乗員・乗客全員が亡くなりました。用心のため、同じ日にレオポルズビルからおとり機が飛ばされましたが、同機はカタンガ上空を通過する経路を経て、無事ンドラに着陸しています。この墜落については、当初から撃墜説が取りざたされ、国連による調査も行われましたが、明確な墜落原因の究明には至らなかったようです。

 最近、この記念施設を訪問する機会がありました。幹線道路から分かれた未舗装の道をたどってしばらく行くと、林のような高木の一群が目に入ります。辺り一帯には高木はないので、際立って目立ちます。もっと近くに来ると、円形の敷地の周囲を高木によって囲まれた施設であることがわかります。公園のようにきれいに整備されています。他に訪問者もなく、森閑としていました。円形の敷地の中心に、記念碑が設置されています。記念碑を取り囲むようにして、ここを訪れた人々によって寄贈された多数の碑が置かれています。寄贈者は、各国の要人、商工会議所などの組織、事故の犠牲者の遺族など色々です。敷地内に博物館があり、事故関係の資料やハマーショルド事務総長の業績に関する資料などが展示されています。

<記念碑>

 ザンビアは1964年にイギリスから独立し、以来今日まで、国内は平和で安定しています。周辺の国々では、近年はだいぶ落ち着きましたが、紛争や混乱が続いたのとは大きな違いです。ザンビアは、周辺国の紛争で生じた難民を何万人も受け入れていますし、スーダンの国連平和維持活動に参加したり、南部アフリカ開発共同体(SADC)の政治安全保障機構の議長国を務めたりして、この地域の平和と安定にも積極的に貢献しています。
ザンビア政府が、この墜落現場を整備して記念施設を造り、大切に保存しているのは、そうした平和と安定への姿勢と軌を一にするものだと思います。ザンビア政府は、1997年に、この場所・施設を世界遺産の候補として登録しました。また、国立のカッパーベルト大学には今年、「ダグ・ハマーショルド平和研究所」が新設されました。この研究所は大学構内にありますが、将来、記念施設の隣接地に移設する計画だそうです。

 今年はハマーショルド事務総長没後50周年に当たります。例年、命日にこの場所で記念行事が行われていて、歴代の駐ザンビア日本大使も参加しています。今年も間もなくその日がやってきます。紛争の大陸から希望と機会の大陸へと大きく変貌している今のアフリカを、もしハマーショルド事務総長が見たら、きっと深い感慨を抱くのではないでしょうか。

 

平成23年9月12日

駐ザンビア特命全権大使 江川明夫